翌日の部活では、顧問の先生から小雪の症状が発表された。
鼻骨骨折。
鼻の先の骨にヒビが入ってしまっているという。
まだ鼻の腫れがひどいため、手術が必要かどうかの診断は出来ずにいた。その判断は、一週間後に予定されているという。
もし手術が不必要な場合でも、骨が固まるまでは決して鼻をぶつけてはならない。それは、ドジで運動音痴の小雪にとって、文化祭の舞台でダンスを踊るなと言っているようなものだった。
「どうするんだよ、部長の彩夏さんよ」
リハーサルが終わり、人気の無くなった体育館に松岡の声が響く。
「どうするって、何をどうするのよ」
彩夏がとぼけたように答える。
どうやら、ステージ上には松岡と彩夏の二人だけが残っているようだった。
僕は、二階の音響ブースで音楽の調整のために居残っていた。ステージの二人は僕の存在には気付いていないようだ。聞いてはいけないと思いながらも、二人の声は自然と耳に入ってくる。
「文化祭の舞台だよ。小雪は怪我でダンスが踊れなくなっちまっただろ。だったら代役を立てるか、ダンスの無い演劇に書き換えるか、どちらしかねえだろ?」
今日のリハーサルは、小雪が演じるチビ地蔵が居ないまま強行した。しかし、なんだか締まらないものになってしまう。それは、チビ地蔵はすでにメインのヒロインになっていることを示していた。
「ああ、その件ね。小雪ちゃんには悪いけど代役を立てるわ」
「代役って、今から間に合うのかよ」
松岡は心配そうな声で彩夏に尋ねる。
「なに、その不満そうな顔は。ははーん、愛しの姫君がリタイアしそうだから心配なのね」
「違ぇよ」
「あら、そうかしら。演技中はいつもあんなに楽しそうにしてるのに」
「だから違ぇって言ってんだろ。お前があんな演出にしたんじゃねえか。俺はただ演じてるだけだぜ」
本当にそうだろうか。
ステージを上から見ていると、松岡と小雪はまるで恋人同士のように演技をしていた。
「ホントは小雪ちゃんのこと、好きになっちゃったんじゃないの?」
彩夏も、僕と同様に感じていたようだ。
「わかんないヤツだな。俺はちゃんとお前のことを」
キュッとステージの床を上履きがこすれる音がする。
「やだ、こんなところで。ダメだよ、誰か居るかもしれないじゃない」
「誰も居ねえよ」
「んっ……」
急に静かになったのでそっと階下を覗いてみると――舞台袖の陰で二人はキスをしていた。
――えっ、えっ、えっ!!
部長と松岡先輩って付き合ってたんだ。って、キ、キスしてるよ。ドラマみたいに。
僕は思わず息を潜める。
「わかったわ。あんたを信じる」
キスが終わると、二人はしばらく見つめ合っていた。
「それで代役って誰にするんだよ」
「千秋ちゃんにしようと思う」
「ち、千秋って一年生の千秋か? おいおい、大丈夫なのか? 本番まであと一週間ちょっとしかないんだぞ」
松岡が驚くのも無理はなかった。一年生が入部早々に役に抜擢されることは、今まで一度も無かったからだ。
「さっきね、千秋ちゃんから相談されたの。私を使ってくれませんかって。千秋ちゃん、自分にもチビ地蔵が演じられるんじゃないかってずっと一人で練習してたみたいなの。演技もちょっと見てみたけど、なかなかだったわ」
千秋よ上手いことやったな。僕は小さく舌打ちをする。
「なんだ、それを先に言ってくれよ。じゃあ、舞台は安心だな」
松岡は安堵の声を上げた。
「ええ、何とかなりそうよ。ところで千秋ちゃんに聞いたんだけど、メインのシーンの曲を提案したのってあんたなんだって?」
おいおい千秋よ、そんなことまで部長にしゃべったのかよ。
「えっ、そりゃ何のことだ?」
驚く松岡。
「ほら、メリー・クリスマス・ミスター・ローレンスよ。坂本龍一の」
「俺、知らねえぞ」
その言葉に僕は耳を疑った。
――だって、松岡先輩が僕に推薦したんじゃないですか。小雪の紹介する曲がいいからって。
「千秋ちゃん言ってたわよ。小雪ちゃんがあんたにCDを渡して、その曲をあんたが気に入ったから幸樹に提案して、それで曲が決まったって」
「小雪がCDを?」
すると松岡は、ようやく理解したという表情をした。
「ああ、あのCDか。実はな、あれは小雪からもらってそのまま幸樹に渡しちまったんだよ。聞くのが面倒臭くってな。今時CDなんて聞いてるやついるか? あっ、これは内緒だぜ」
聞きたくはなかった。
そして信じられなかった。
今、聞いたことを、松岡に全力で否定してほしかった。
「あんたって悪い人ね。あーあ、何で私、こんな人を好きになっちゃったんだろ」
「悪かったな。俺も好きだよ」
「あっ、んっ……」
そして二人はまたキスをする。
――それじゃあ小雪があまりにも可哀そうじゃないか……。
松岡を殴ってやりたい衝動に駆られつつも、僕は一歩も動けなかった。それは、松岡を許せないという怒りよりも、松岡に小雪は取られないという安堵の方が大きかったから。
僕はただ、音響ブースからステージ袖での出来事を見つめていた。
>つづく
鼻骨骨折。
鼻の先の骨にヒビが入ってしまっているという。
まだ鼻の腫れがひどいため、手術が必要かどうかの診断は出来ずにいた。その判断は、一週間後に予定されているという。
もし手術が不必要な場合でも、骨が固まるまでは決して鼻をぶつけてはならない。それは、ドジで運動音痴の小雪にとって、文化祭の舞台でダンスを踊るなと言っているようなものだった。
「どうするんだよ、部長の彩夏さんよ」
リハーサルが終わり、人気の無くなった体育館に松岡の声が響く。
「どうするって、何をどうするのよ」
彩夏がとぼけたように答える。
どうやら、ステージ上には松岡と彩夏の二人だけが残っているようだった。
僕は、二階の音響ブースで音楽の調整のために居残っていた。ステージの二人は僕の存在には気付いていないようだ。聞いてはいけないと思いながらも、二人の声は自然と耳に入ってくる。
「文化祭の舞台だよ。小雪は怪我でダンスが踊れなくなっちまっただろ。だったら代役を立てるか、ダンスの無い演劇に書き換えるか、どちらしかねえだろ?」
今日のリハーサルは、小雪が演じるチビ地蔵が居ないまま強行した。しかし、なんだか締まらないものになってしまう。それは、チビ地蔵はすでにメインのヒロインになっていることを示していた。
「ああ、その件ね。小雪ちゃんには悪いけど代役を立てるわ」
「代役って、今から間に合うのかよ」
松岡は心配そうな声で彩夏に尋ねる。
「なに、その不満そうな顔は。ははーん、愛しの姫君がリタイアしそうだから心配なのね」
「違ぇよ」
「あら、そうかしら。演技中はいつもあんなに楽しそうにしてるのに」
「だから違ぇって言ってんだろ。お前があんな演出にしたんじゃねえか。俺はただ演じてるだけだぜ」
本当にそうだろうか。
ステージを上から見ていると、松岡と小雪はまるで恋人同士のように演技をしていた。
「ホントは小雪ちゃんのこと、好きになっちゃったんじゃないの?」
彩夏も、僕と同様に感じていたようだ。
「わかんないヤツだな。俺はちゃんとお前のことを」
キュッとステージの床を上履きがこすれる音がする。
「やだ、こんなところで。ダメだよ、誰か居るかもしれないじゃない」
「誰も居ねえよ」
「んっ……」
急に静かになったのでそっと階下を覗いてみると――舞台袖の陰で二人はキスをしていた。
――えっ、えっ、えっ!!
部長と松岡先輩って付き合ってたんだ。って、キ、キスしてるよ。ドラマみたいに。
僕は思わず息を潜める。
「わかったわ。あんたを信じる」
キスが終わると、二人はしばらく見つめ合っていた。
「それで代役って誰にするんだよ」
「千秋ちゃんにしようと思う」
「ち、千秋って一年生の千秋か? おいおい、大丈夫なのか? 本番まであと一週間ちょっとしかないんだぞ」
松岡が驚くのも無理はなかった。一年生が入部早々に役に抜擢されることは、今まで一度も無かったからだ。
「さっきね、千秋ちゃんから相談されたの。私を使ってくれませんかって。千秋ちゃん、自分にもチビ地蔵が演じられるんじゃないかってずっと一人で練習してたみたいなの。演技もちょっと見てみたけど、なかなかだったわ」
千秋よ上手いことやったな。僕は小さく舌打ちをする。
「なんだ、それを先に言ってくれよ。じゃあ、舞台は安心だな」
松岡は安堵の声を上げた。
「ええ、何とかなりそうよ。ところで千秋ちゃんに聞いたんだけど、メインのシーンの曲を提案したのってあんたなんだって?」
おいおい千秋よ、そんなことまで部長にしゃべったのかよ。
「えっ、そりゃ何のことだ?」
驚く松岡。
「ほら、メリー・クリスマス・ミスター・ローレンスよ。坂本龍一の」
「俺、知らねえぞ」
その言葉に僕は耳を疑った。
――だって、松岡先輩が僕に推薦したんじゃないですか。小雪の紹介する曲がいいからって。
「千秋ちゃん言ってたわよ。小雪ちゃんがあんたにCDを渡して、その曲をあんたが気に入ったから幸樹に提案して、それで曲が決まったって」
「小雪がCDを?」
すると松岡は、ようやく理解したという表情をした。
「ああ、あのCDか。実はな、あれは小雪からもらってそのまま幸樹に渡しちまったんだよ。聞くのが面倒臭くってな。今時CDなんて聞いてるやついるか? あっ、これは内緒だぜ」
聞きたくはなかった。
そして信じられなかった。
今、聞いたことを、松岡に全力で否定してほしかった。
「あんたって悪い人ね。あーあ、何で私、こんな人を好きになっちゃったんだろ」
「悪かったな。俺も好きだよ」
「あっ、んっ……」
そして二人はまたキスをする。
――それじゃあ小雪があまりにも可哀そうじゃないか……。
松岡を殴ってやりたい衝動に駆られつつも、僕は一歩も動けなかった。それは、松岡を許せないという怒りよりも、松岡に小雪は取られないという安堵の方が大きかったから。
僕はただ、音響ブースからステージ袖での出来事を見つめていた。
>つづく
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