そして無情にも本番の日がやってきた。
「はあ……」
 開演を前にキャットウォークに上がった小雪は、今日何度目か分からないため息をつく。
 鼻の腫れはすでに収まり、幸い手術もしなくて良いと診断された。しかし、骨が固まるまでのことを考えて、チビ地蔵の役は降りざるを得なかった。部活に復帰したその日に、雪降らせ役へのコンバートを彩夏に告げられたのだ。
 小雪にとって、それがいまだに不満らしい。
「いいなあ、千秋ちゃん……」
 新しいチビ地蔵役は千秋になった。
 それをうらやむ小雪の声は、同じ二階に居る僕の元までは届かなかったが、彼女の表情からそうつぶやいているのは明らかだった。
 ――小雪よ、松岡先輩の心は初めからお前には向いていなかったんだぞ。
 僕はそのことを小雪に話せずにいた。
 話せるはずもなかった。
 ――小雪はまだ、あの場所に戻れば松岡先輩の心に近づけると思っているのだろうか?
 その証拠に、小雪はずっとステージ上のチビ地蔵が立つ場所を見つめていた。

 そしていよいよ本番が始まった。
 小雪は雪の袋を抱えて、彼女特製の雪を降らせる。
 いつものように、親指くらいの大きさに丸く切った紙の雪を。
 ――他の誰かが、悲しい思いをしなくてすみますように。
 小雪が願い続けてきたことがどんなに尊いことか、僕は今回の件で思い知らされた。
 そして今回ばかりは、その雪を作ることがどんなに辛かったかということも。
 しかし小雪はやり遂げた。
 精一杯の小雪の優しさだった。
 雪はゆっくりと宙を舞いながら、お地蔵さんの頭の上に降り積もる。
 坂本龍一のメリー・クリスマス・ミスター・ローレンスのイントロに乗せて。
 イントロが終わり曲のメインフレーズが流れると、舞台は一瞬のうちに荘厳で幻想的な空間に変化した。
 ――音楽の力はつくづく絶大だな。
 実は僕は、本番でこの曲をかけるのをやめようと思っていた。
 なぜなら、このCDにまつわる秘密を知ってしまったから。
 小雪が松岡にCDを渡し、それが僕の元に届いたこの曲。
 松岡が気に入ったと、小雪が思い続けているこの曲。
 そして松岡は聴いていないと、知ってしまったこの曲。
 しかし、そんな人間関係の不協和音を吹き飛ばすくらい、この曲のメロディは純朴だった。
 ――だって、小雪が好きな曲なんだから。
 結局僕は、予定通りこの曲をかけることにした。

 このシーンにセリフは一切無い。
 夜の小路にたたずむお地蔵さんが七体。
 その一体一体に松岡が演じる青年が笠を掛けていく。
 そしていよいよチビ地蔵の番になった。
 松岡が自分の掛けている手ぬぐいを外している間、千秋はそっと目を開けた。それはいつかの小雪のように。
 ――千秋よ、上からは丸見えなんだぜ。
 ここからはすべてが見える。演劇で行われていることのすべてが。
 それは小雪にとっても同じだった。
 小雪の表情が次第に崩れていくのが、こちらからも見てとれた。
 そして松岡が手ぬぐいを外し終わると、千秋は松岡に向けて満面の笑みを送る。
 ――だから千秋、お地蔵さんは表情を変えちゃダメだって言ってるじゃないか。
 小雪は、目に大粒の涙を浮かべていた。
 僕の胸はキュンと締め付けられる。
 ――やっぱり小雪は松岡先輩のことが好きなんだ。
 そして、メリー・クリスマス・ミスター・ローレンスをかけたことを強く後悔する。
 小雪は今でも、この曲を松岡が気に入ってくれたと思っている。
 だから小雪は、この曲がかかるあの場所が恋しくて仕方がないのだ。
 ――これ以上、この曲を流してはいけない。
 胸が張り裂けそうな想いは、僕も同じだった。
 ――小雪の涙がこぼれる前に。
 ――雪が雨に変わるその前に。
 だから僕は意を決し、目の前のスイッチを押した。

 >つづく