桜舞う橋の上で(完結)

はじめから読む・・・・・津木高校演劇部を舞台にした、甘酸っぱい青春小説です。

「また雪、なのね……」
 隣を歩く小雪がポツリとつぶやいた。
 ここは暖かな春の夕暮れの鏡大橋の上。川辺の桜並木は、その薄紅色を水面に反射させている。
「えっ、明日雪が降るの? こんなに暖かいのに? 天気予報ってそんなだったっけ?」
 桜は満開だというのに。
 驚いた僕は小雪の顔をのぞき込む。春の夕陽は彼女の頬を赤く染めていた。
「ち、違う、違うよ。天気のことじゃないってば」
 小雪ははずかしそうに僕を見上げる。
 身長一四五センチ。そんな小柄な彼女の見せる上目づかいの仕草は、心の奥をくすぐった。
「部活だよ、部活。ほら、この夏の演題が決まったでしょ」
 僕たちは高校の演劇部に所属している。共に新二年生。春になって新学期が始まると同時に、夏の文化祭で上演する演題が決定した。
「そうか、そうだったな……」
 つい数時間前のことなのに、ずいぶんと昔のことのように思えてしまうのは、その演題が予想とはかなりかけ離れていたから。
「それにしても笠地蔵とはな」
「そうよね、よりによって笠地蔵とはねぇ……」
 二人でため息をつく。
 笠地蔵――こんな古風な演題を提案したのは、三年生で部長の彩夏だった。暑い夏だからこそ、あえて涼しそうな演題をやろうということらしい。
 はたしてそうだろうか?
 夏の体育館で雪のシーンを見て、涼しくなる奴がいるものか?
 時々、部長の考えていることが分からなくなる。そんなすっ飛んだ発想が玉にキズの部長だった。
「だからね、私さっき、雪って言ったの」
 確かに笠地蔵に雪は欠かせない。
 そして小雪は川面に視線を移し、ゆっくりとつぶやいた。
「その雪をね、降らせるのはきっと、また私なんだから……」
 一年生だった先月までの一年間、小雪はずっと裏方だった。小道具や衣装を用意したり、舞台セットを動かしたり。ちょこまかと走り回るその姿を見た部長は、小雪を雪降らせ役に抜擢した。
『小雪ちゃん、ちっちゃくて可愛いから雪降らせ役、よろしくね』
 そんなわけのわからない理由で。
 だから小雪は、秋の公演からずっと雪降らせ役を続けている。ステージ上のキャットウォークが彼女の舞台だった。
 おそらく小雪は自分の役に不満を持っているのだろう。歩きながらいつまでも川辺を見つめている彼女を見て、僕はそう感じていた。
 ここは男らしいところを見せるべきだと、思い切って小雪に提案する。
「じゃあさ、小雪。僕が部長に相談して、違うことをやらせてもらえるように頼んであげるよ」
「……」
 小雪は黙ったまま、相変わらず川辺を見続けていた。
 ――しまった、もしかしたら余計なことを言っちまったか?
 小雪を不快にさせてしまった。そう感じた僕は必死に繕う。
「ゴメン、小雪。お節介だったね。って、ちょっと聞いてる?」
 すると小雪は驚いたように僕の方を向く。
「えっ、なになに? 幸樹くん、何か言った?」
「なんだよ、さっきから何も聞いてなかったのかよ」
「へへへ、ゴメンね。桜があまりに綺麗なものだからつい見とれちゃって。それで何?」
 確かに川辺の桜並木は美しい。が、不満を漏らしかけながらも、それをすっかり忘れて桜に見とれてしまうなんて、天然キャラ丸出しの行動はなんとも小雪らしかった。
「いや、小雪を見てると、雪降らせじゃないことをやりたいのかなって思ったから」
 すると小雪の瞳が輝いた。
「幸樹くん、いいこと言うねぇ。そうね、私、違うものにもチャレンジしたい」
 ――やっぱり小雪は雪降らし役に不満を持っていたんだ。
 自分の感じたことが間違っていなかったことを確認して、僕は少しほっとする。
「じゃあ、何がいい?」
 僕たちはこの四月で二年生になった。新入生がたくさん入部して裏方を引き受けてくれれば、小雪だって舞台に立てるはずだ。
「えっとねぇ……」
 そして満面の笑みで声を上げる。
「桜!」
「へっ?」
 僕は言葉を失う。
 ――桜ぁ? 桜の役がやりたいのか? それってただ立ってるだけじゃないの? というか、笠地蔵に桜って出てきたっけ?
 すると小雪はまた川辺の桜並木を向く。
「私、一度でいいから桜を降らせてみたい。あんな風に」
 ――おいおい、そっちかい。いい加減、降らせ役から離れろよ。
 脱力のあまり、ずっこけそうになる。
「だって、すっごく綺麗なんだもん」
 桜はすでに散り始めていて、風が吹くたびに大量の花びらを夕陽の中に放出していた。川面で発生する小さな乱気流に乗っていつまでも舞い続けるピンクの欠片は、夕陽の反射と相まって幻想的な情景を作り出している。
 立ち止まってそれをうっとりと見つめる小雪を見て、真剣に彼女のことを考えていた自分がバカらしくなった。
「小雪は、舞台には立ちたくないのか?」
 僕は小雪と並んで、鏡大橋の欄干に身を預ける。
「舞台ねえ……」
 そして一息おいて、
「私って、チビでドジで物覚え悪いからね。舞台映えしないし、裏方がお似合いなのよ。それにね、ステージの上から舞台を見るのって結構気に入ってるんだ。幸樹くんも近くに居るしね」
 と僕の方を向きながら、へへへと照れ笑いする。
「そう言う幸樹くんはどうなの? ずっと音楽担当をやるつもり?」
 僕は音楽担当だった。
 体育館の音響ブースは舞台袖の二階にあり、その窓から舞台を見下ろすことができた。小雪が居るキャットウォークは目の前で、二人が近くに居るというのはそういう意味だった。
「僕は……」
 小雪の近くに居たい、なんてキザなことを言う勇気も無く、
「音楽担当が好きなんだ」
 と言いかけた。
 その時。
 鏡大橋と平行に架かる鉄橋を電車が走る。その轟音が僕の言葉を掻き消した。
「えっ、なになに、聞こえなかったよぉ」
 小雪がおねだりするような目つきで僕を見る。
「何でもない。何も言ってないよ」
「えー、ずるい。口が動いてた。何て言ったのか教えてよ」
 欄干から身を離し橋上を歩き始めた僕を、小雪が小走りに追いかける。
「だから、音楽担当が好きだって言ったんだよ」
 僕たちのそれぞれの自宅がある対岸の町、日名町はもうすぐだった。

 >つづく



 翌日。
 演劇部のミーティングでは、部長の彩夏から次の演題『笠地蔵』についての説明が予定されていた。
 ということで会場は盛況だ。ほとんどの部員が出席している。三年生が七人、二年生は僕と小雪を含めて五人。そしてさらに、入部希望の新入生が十人も見学に来ていた。
 部員達が集まると、彩夏が前に立って説明を始める。しかしその冒頭、出鼻をくじくように三年年の松岡が質問した。
「おい、彩夏。お前のやりたい笠地蔵って一体どんな演劇なんだよ」
 松岡は三年生唯一の男子生徒。一八〇センチはあろうかという長身と甘いマスクで、女子部員の人気を独占していた。
「それをこれから説明するんだけど。ストーリーは普通の笠地蔵よ。雪にさらされるお地蔵さんを見かねて笠を掛けてあげる。するとお地蔵さんが恩返しをしにやって来る。それだけ。簡単でしょ」
 一方、部長の彩夏は眼鏡の似合うクールビューティー。腕組みをしたまま、松岡の質問にも臆することのない姿勢が様になっている。
 その態度に松岡はしびれを切らした。
「それは誰もが知ってる笠地蔵じゃねえか。そんなんじゃ見に来た人はみんな飽きちまうぞ。少なくとも俺はお爺さん役は御免だぜ」
 演劇部の男子は二人しかいない。松岡と僕だ。もし新入部員に男子が入らなければ、お爺さん役をつとめるのはこの二人のどちらかということになる。
「松岡ならそう言うと思ったよ」
 彩夏は余裕の笑みを浮かべた。
 ――えっ、部長のあの余裕っぷりは何? 
 松岡先輩がお爺さん役を拒否することは織り込み済みってこと? 
 そ、それじゃ、ま、まさか僕がお爺さん役?
 ドキドキしながら次の展開を見守る。しかし予想に反し、彩夏は松岡を説得するように話し始めた。
「笠地蔵のストーリーはそのままにして、メインの登場人物を若返りさせるというのはどうかしら? 演じるのは高校生の私達なんだから、その方がぴったりだしね。お爺さんは青年に、お地蔵さんは若くて可愛いお地蔵さんにするのよ」
 若くて可愛いお地蔵さんというのがよく分からないが、青年役というのなら松岡にもやる気が出てくるかもしれない。
 ――僕には青年役は無理ですよ。お願い、先輩、引き受けて下さい!
 期待を込めて松岡を見る。しかし松岡はさらに不満をつのらせていた。
「青年って、青年が笠を作るのかよ。それって変じゃね?」
 それでも彩夏は怯まない。
「家業が笠屋ってことにすればいいじゃない。親が作った笠を子供が売りにいく。昔の日本だったら何も変じゃないと思うけど」
「じゃあ、若くて可愛いお地蔵さんってのは何だよ」
 ――おっ、さすがは松岡先輩、ちゃんと突っ込んでくれた。
 僕は密かに嬉しく思う。
「だって、うちは男子が二人しかいないんだから、当然お地蔵さんは女子がやることになるでしょ。正に若くて可愛いお地蔵さんじゃない。そのお地蔵さんはね、自分達に笠を掛けてくれた青年に恋をするの。だから恩返しと称して青年の家に押しかけるのよ」
 彩夏は、笠地蔵を独自のラブストーリーに仕立てるつもりのようだ。
 それを聞いて、松岡は少し考え込んでいる。
「どう? 松岡。青年役をやる気になった?」
「……ああ。まあ、それならいいけど」
 女子が演じるお地蔵さんにモテモテの青年役。そんな風に説明されて、さすがの松岡も観念したようだ。
 すると、彩夏はにんまりとしながら黒板に『青年役、松岡』と書く。
 切れ者の部長の説得に、一人の部員が落ちた瞬間だった。
 入部希望者の反応はどうだろう。
 ミーティング会場を見回してみると、多くの一年生は少し興奮したような表情で黒板を見つめていた。どうやら先程のやり取りに、すっかり心を奪われてしまったらしい。
 どんな笠地蔵になるのか全くわからない状況、そしてそれが少しずつ明らかになっていく不思議な感覚。
 もしかすると彩夏は、入部希望者にその様子を見せつけようとしていたのかもしれない。そう考えると彼女の余裕っぷりには納得がいく。松岡はまんまとその罠にはまってしまったと言えるだろう。

 次はお地蔵さんのキャストを決める番だった。
 ――確か、笠地蔵に出てくるお地蔵さんは七人だったな……。
 僕は笠地蔵のストーリーを思い出していた。
 五番目のお地蔵さんまでが売り物の笠を掛けてもらい、六番目がお爺さんの笠を掛けてもらう。そして最後に残った七番目は、笠が無くなってしまったのでお爺さんの手ぬぐいを掛けてもらうんだったっけ?
 すると彩夏の声がミーティング会場に響く。
「お地蔵さんのキャストだけど、原作の通りの七人を予定してる。最初の五人は三年生、残りの二人は二年生よ」
 すると二年生の女子達がざわざわし始めた。
 そりゃそうだ。松岡が演じるイケメン青年に恋する役が、自分に回ってくるかもしれないのだ。静かにしろという方が無理かもしれない。二年生の女子は小雪を入れて四人。そして役の数は二つ。つまり五
パーセントの確率で、その幸運を手にすることができるのだから。
 そして彩夏は続ける。
「五番目のお地蔵さんまではいいよね。残りの三年生はちょうど五人だから」
 三年生の女子は一様にうなずいた。
「じゃあ、次は六番目のお地蔵さん。これは、小雪ちゃんを除いた二年生の女子から立候補を聞いてみたいと思うんだけど……」
 その言葉に耳を疑った。
 ――えっ、小雪を除いたってどういうこと?
 なぜ、小雪だけが除け者なのだろうか。部長はまた小雪を雪降らせ役にするというのだろうか。ちっちゃくて可愛いというそれだけの理由で。
 肝心の小雪をチラリと見ると、ほっと胸を撫で下ろしていた。きっと、自分はまた雪降らせ役でよかったなんて思っているに違いない。
 そんな小雪をもどかしく思う。
 ――小雪、ここで文句を言わなきゃダメじゃないか。だったら僕が……。
 お節介とは思いつつ、とりあえず抗議をしようと手を上げかけた時、二年生の女子達から先に声が上がる。
「部長。なんで小雪を除くんですか?」
「そうですよ部長。小雪だって役をやりたいはずだと思うんですけど」
 ――ほら、みんな同じことを思ってるじゃないか。
 小雪の方を見ると、プルプルと首を横に降っていた。
 しかし、そんな小雪の小さな反抗は、彩夏の次の一言によって見事に打ち砕かれる。
「あら、その心配はご無用よ。小雪ちゃんには七番目のチビ地蔵をやってもらう予定だから」
 ――えっ!?
 一瞬、会場の時が止まった。
 彩夏は小雪を熱く見る。会場の視線も小雪に集まった。
 ――こ、小雪が七番目のチビ地蔵!?
 その時の小雪の表情は見物だった。目をパチクリさせ、まさに鳩が豆鉄砲を食らったという様子。
 さらに声を上げた女子達も唖然としていた。きっと、どうせ小雪は役をもらえないからと高をくくっていたのだろう。二つあった空席が、いきなり一つに減ってしまったのだ。残り枠をなんとしてでも勝ち取ろうと、ただならぬ雰囲気を漂わせ始めていた。
 そして彩夏は、いつもの言葉を付け加えた。
「だって小雪ちゃん、ちっちゃくて可愛いじゃない。チビ地蔵にピッタリよ」

 >つづく


 その日の帰り道。
 小雪はずっとため息をついていた。
「はあ、なんで私がチビ地蔵なんだろう……」
 ――そりゃ、小雪がチビだからだよ。
 いつもの帰り道だったら言えただろう。そんな何気ない憎まれ口を。
 しかし今の小雪のため息は、何かとても重く感じられた。
 ――よかったじゃん、念願の役がもらえてさ。
 そんな言葉も今の彼女には慰めになりそうもない。
 だから僕は、黙ったまま小雪の隣を歩いていた。
「いいなあ、幸樹くん。また音楽担当なんでしょ」
 僕はまた音楽担当になった。
 でも小雪が舞台に立つのだったら、自分も何か役をやってみたいという気持ちもあった。
「僕だって一度は演技したいって思ってるんだけどな」
「えっ、幸樹くんが? ウソでしょ?」
「あー、バカにしたな。こう見えたって、中学の頃はバリバリ演技してたんだぜ」
 ウソだった。剣道部だったから。
 小雪のため息が止まるきっかけになってくれればよかった。
「だったら幸樹くんが青年役をやってよぉ。そうすればこんなに緊張しないのにな。あーあ、私なんかがチビ地蔵なんてできるかな……」
 小雪は何度目かわからないため息をつく。
 ――そうか、小雪は緊張してるんだ。
 それは音楽担当の自分とて同じことだった。
「僕だって今回は自信ないよ。選曲がすごく難しそうだからさ。笠地蔵のメインはお地蔵さんに笠を掛けるシーンだろ。そこでどんな曲を流せばいいのかさっぱり見当がつかないよ」
 すると小雪は嬉しそうに僕を見る。
「じゃあ私が協力してあげる。それでいい曲が見つかったら、雪降らせ役に戻してもらえるよう部長に頼んでくれる?」
 何て答えたらいいのか分からなかった。
 小雪が雪降らせ役になったら、前と同じように楽しくやれるだろう。でもそれは小雪のためになるのだろうか?
 小雪はチビだけど、彼女にしかない魅力がある。そして偶然にも、チビ地蔵という背の低いことが活かせる役が降って来た。これは神様からのプレゼントなんじゃないだろうか。
 困った僕は、小雪から視線を逸らし、鏡大橋から川辺の桜に目を向ける。桜は咲くのも早いが散るのも早い。ひらひらと花びらが舞う川辺の桜は、すでに葉桜になりかけていた。
 ――僕達も今は葉を伸ばす時期なのかもしれない。
 僕は意を決して小雪を向く。
「僕も選曲を頑張ってみるから、小雪もチビ地蔵を頑張ってみようよ。ちゃんと見てるからさ」
 音響ブースからは舞台が見える。小雪の頑張りのすべてが見渡せる。自惚れかもしれないが、そのことが彼女の支えになればいいと思った。
「幸樹くんのいじわる……」
 その日の二人は、もう会話を交わすことはなかった。

 >つづく

 笠地蔵の選曲は難航した。
 この演劇のメインのシーン、つまりお地蔵さんの頭に笠が掛けられるシーンに用いる曲を、僕はなかなか決めることができなかった。
 二年生になって裏方のトップを任されたのも原因の一つだ。今年は十人も新入生が入部したものだから、その指導だけで四月はあっという間に過ぎていった。
 僕がもたもたしているうちに、小雪はどんどんとその才能を開花させていく。とは言っても、もともとの天然っぷりに輪がかかっただけなのだが。
 例えばダンス。
 彩夏の提案で、お地蔵さんが青年に家の前に来た時に恩返しのダンスを披露することになった。
 ということで、お地蔵さん役の七人はダンスの練習を開始する。しばらくすると、六番目のお地蔵さんまでがピッタリ合うようになった。が、どうしても小雪だけが微妙にリズムを外してしまう。
 そんな練習風景を僕はヤキモキしながら見ていた。
 たまりかねて、帰り道にそれを指摘してみたことがある。
『小雪、お前のダンス、外しまくってるぞ』
 すると、彼女は平然と答える。
『えっ、合ってるじゃん。幸樹くん、何言ってるの? 合ってる、合ってる。全然問題ナシっ!』
 悪びれた様子は何もない。
 それもそのはず、本人はちゃんと合っていると思っているのだから。
 そんなダンスの練習を、指導する彩夏はいつもにんまりしながら見ていた。まるで小雪を起用したのが成功だったと言わんばかりに。
 ――もしかして、部長、何かをねらってる?
 そういう視点で小雪のダンスを見ていると、その外しっぷりは意外と味のあるものだった。彼女は堂々と演技をしている。観客の立場で見ると、意図してリズムを外しているようにも映るのだ。
 ――小雪の仕草はなかなか愛嬌があるな。別にこのままでもいいし、ダンスがそろえばそれはそれでいいかもしれない。
 僕は次第にそう考えるようになった。

 >つづく

 五月に入ってゴールデンウィークが終わると、さすがに僕の尻にも火がついた。
 ――メインのシーンに合う曲を決めなくちゃ。
 本番まで二か月を切った。
 他のシーンのBGMはほとんど決まっている。ダンスの曲はお地蔵さん役の生徒達で決めた。残るはメインのシーンの曲のみだった。
 ――普通のBGMじゃ物足りないんだよな。静かで、厳かで、雪のシーンに合ってて、しかも何か主張を持っている曲はないだろうか。
 僕は、候補にボーカル曲を考えていた。
 というのも、青年がお地蔵さんに笠を掛けるシーンにはセリフがないからだ。普通のBGMではおとなし過ぎて、なんだか味気ないものになってしまう。このシーンで演技される内容は誰もが知っている。それならば、観客の注意が曲の方に多少逸れたとしても問題は無い。
 今、僕は、部室の机に何枚かのCDを並べている。『雪』をキーワードに両親から借りたり、家中から集めたCDだ。例えば、レミオロメンの『粉雪』や中島美嘉の『雪の華』、ドリカムの『WINTER SONG』など。『なごり雪』、『さよなら』、『SNOW AGAIN』といった見知らぬタイトルも並んでいた。
 ――なんか聞いたことのない古い曲ばかりになっちまったな。
 AKB48やEXILEも一瞬考えたが、笠地蔵には合わないような気もする。
 まあ、文化祭には年配の方も来るんだから、古い曲で問題ないとは思うけど。
 僕は携帯CDプレーヤーを取り出し、練習風景を見ながら一曲ずつ吟味するように聴き始めた。
 まずは、レミオロメンの『粉雪』。
 ――曲自体はいい感じなんだけど、サビに入るまでが長いんだよな。これじゃ、その前にメインのシーンが終わっちゃうよ。
 父親のお勧めのオフコースの『さよなら』。
 ――厳かな感じはいいんだけど、最初の歌詞で『終わり』になったらダメだろ。お地蔵さんとの出会いのシーンなんだから。
 母親のお勧めのイルカの『なごり雪』と森高千里の『SNOW AGAIN』。
 ――『なごり雪』は別れの曲だから、やっぱり不適当かも。『SNOW AGAIN』は、サビの『もう一度会いたい』って歌詞がこの演劇にピッタリなんだけどな。でも、どちらも曲調が明るすぎて春をイメージしてしまうぞ。
 ――うーん、残るは『雪の華』か『WINTER SONG』か……。
 この二曲を皆に聞いてもらってから選ぶのもいいかな、と思っていた時、休憩中の松岡が僕の元にやってきた。
「はははは、幸樹。ずいぶんと悩んでいるようだな。そんな時に悪いけど、ついでにこの曲も候補に入れてくれないか?」
 一枚のCDを差し出す。
 それは透明なケースに入れられており、CDの表面には何も書いていない。おそらく自作のものだろう。
「先輩。入ってるのは何という曲ですか?」
 すると松岡は意地悪そうに笑いながら答えた。
「まあ、聞いてのお楽しみだ。先入観無しで、お前の耳で判断してくれ。それに、もしダメだったら曲名なんて必要ないだろ?」
「わかりました」
 そして松岡は練習に戻る。
 ――先輩が推薦する曲って、どんな感じなんだろう?
 松岡の風貌から男性ユニットの曲なんじゃないかと連想しながら、僕はプレーヤーにCDをセットした。

 それは意外なことに、ボーカルの無い曲だった。
 イントロがフェードインして、三連符のリズムが繰り返されていく。
 ――へえ、松岡先輩ってこんな曲も聞くんだ。
 静かで厳かな雰囲気。
 松岡の風貌からは全く予想できない曲調。
 イントロのメロディがしばらく繰り返された後、今度は鐘のような音色を使ったメインのフレーズが鳴り響く。耳に残る存在感のあるメロディだった。
 ――これならボーカル無しでも場が間延びしなくて済みそうだ。
 これでもかと何回も繰り返されるメロディは、どこかで聞いたことのある懐かしい響きだった。
 ――誰の曲だったっけな……。坂本龍一?
 そうだ、帰り道に小雪にこの曲を聞いてもらおう。
 もしかすると彼女なら曲名を知っているかもしれない。もし彼女も気に入ってくれたら、演劇に使ってもいいんじゃないだろうか。

 >つづく

 そして帰り道。
「小雪。ちょっと聞いてほしい曲があるんだけど……」
 鏡大橋に差し掛かったところで、僕は小雪に切り出した。
「うん、いいよ」
 快く承諾してくれる小雪。インナーイヤー型のヘッドホンを取り出して二人で分け合う。
 ――まるで恋人みたいな格好だな。
 小雪は背が低いので、ヘッドホンを分け合うためには二人はかなり近づかないといけない。街の中でそんな格好をするのはさすがに恥ずかしく、人が少なくなる鏡大橋に差し掛かるまで待っていたのだ。
「じゃあ、始めるよ」
 小雪の耳にヘッドホンが収まるのを確認すると、僕は携帯CDプレイヤーの再生ボタンを押した。
 フェイドインするイントロが、鏡大橋の雑踏を次第に遮断する。
「……あっ、これは」
 小雪が小さく反応した。
 どうやら彼女も知っている曲のようだ。それなら話が早い。僕はまず、この曲を松岡に教えてもらったことから説明しようと思った。
「松岡先輩が」
「松岡先輩に」
 二人の声が重なった。
 しばらくの沈黙の後、「どうぞ」と僕は会話を譲る。
 ――小雪も松岡先輩と言おうとしてたなんて、どういうことなんだろう?
 すると、ためらいがちに小雪は言葉を紡ぐ。
「私ね、好きって言ったの……」
 ――えええええええっ!!!
 それってどういうこと? 小雪が松岡先輩に告白したってこと!?
 驚いて立ち止まる。すると、分け合っているヘッドホンのコードが伸びて、小雪の耳を引っ張った。
「イテテテ。ちょ、ちょっと幸樹くん。急に止まらないでよ。耳が痛いよぉ」
「ご、ゴメン。だって、小雪。お前、松岡先輩に告白したのか?」
「え、え、えっ、何のこと? わ、わ、私、告白なんてしてないけど……」
 小雪は顔を真っ赤にして否定する。
「だって、松岡先輩に好きって……」
「やだ。この曲のことよ。私、この曲が大好きで、松岡先輩にCDを渡したの。ほら、今回の演劇にもピッタリでしょ。先輩がいいって言ってくれたら、幸樹くんにも提案しようと思ってたんだけど……」
 なんだ、曲のことだったのか。
 ほっとしたのもつかの間、ある想像が僕の頭をよぎる。
 ――もしかすると今聞いているこのCDは、小雪が松岡先輩に渡したもの?
 小雪が松岡にCDを渡す。松岡がそれを聴いていいと判断したから僕に渡した。そんな構図が僕の頭の中で構成されていた。
「じゃあ、今度は幸樹くんの番。さっき何て言おうとしたの?」
 小雪に話しを振られて、僕は正直に答える。
「実はさ、この曲、松岡先輩から紹介してもらったんだよ」
「えっ!?」
 今度は小雪が驚いた顔をした。
「それで……、先輩……、何か言ってた?」
 そして恥ずかしそうにうつむく。
「僕の耳で判断してくれってさ。きっと先輩もこの曲がいいと思ったから僕に紹介してくれたんだと思うよ」
 すると小雪の表情が明るくなった。
「そっか、よかった……」
 まるで告白が成功したかのように。
「それで幸樹くんもこの曲のこと、気に入ってくれたんだよね」
 そして満面の笑みで見上げてくる。
「あ、ああ」
 つい生返事をしてしまったのは、小雪の喜びが僕に向けられたものではなかったから。
 ――小雪。何で先に僕に相談してくれなかったんだよ。
 いつの間にか僕の心を満たしていたのは悔しさだった。
「じゃあ、今回の演劇に使ってくれるよね?」
 先月までの小雪なら、その言葉を最初に言う相手は僕だった。それがたった一ヶ月で、小雪の心の中の順番が変わってしまった。
「考えておくよ」
 小雪から目を逸らしながら僕は答える。彼女の嬉しそうな表情を見るのが辛かった。川辺の桜並木は、青々とした葉を夕方の風に揺らしている。
「やった!」
 小雪が小さく声を上げる。
「ところで……、この曲名は……?」
 やっとのことで僕は重くなった口を開いた。
 本当は曲名なんて聞きたくもなかった。でもそんなことを言っていられるはど時間に余裕はない。
「この曲の名前はね――」
 小雪も鏡大橋から夕暮れの空に目を向ける。その視線の先の雲は、きっと松岡の顔の形になっているに違いない。
「メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス」
 その名前は、僕にとって一生忘れられないものとなった。

 >つづく

 六月に入ると、通し稽古を行うことが多くなった。
 音楽も、本番と同じように流して練習を行う。
 結局、メインのシーンには、坂本龍一の『メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス』を用いることになった。
「幸樹、いい曲を見つけてきたな」
 最初に彩夏がほめてくれた。部内の評判もかなりよかった。
 ――でも部長、この曲を僕に推薦してくれたのは小雪と松岡先輩なんですよ。
 そう言いたかった。
 自分が見つけてきたわけではないのに、他の人からほめられるのは何だかこそばゆい。
 しかし、自分の口から推薦者の二人の名前を言いたくはなかった。だって、そのことを口にすると、小雪の心が松岡に傾きかけていることを認めるような気がしたから。
 ――僕は卑怯な男だ。小雪の心が松岡先輩に近づいていくのをこんなにも恐れている。
 だからCDを松岡から受け取ったことを、僕は誰にも言えずにいた。

 通し稽古が終わり曲の調整をしていると、一年生の千秋が僕に話しかけてきた。
「幸樹先輩ィ。あの曲、いい曲ですね」
 千秋は、新しい雪降らせ役に決まったばかり。はさみを使って紙を切りながら、リハーサルで使う雪を作っていた。
「あの曲って?」
 僕はわざととぼける。
「ほら、お地蔵さんに笠を掛けるシーンですよ。なんていうんでしたっけ? メリー・クリスマス・ミスター・ビーン?」
「ミスター・ローレンスだよ」
 やはりあの曲のことかと、うんざりする。
「実はね、あの曲は僕が選んだんじゃないんだよ」
 だから、千秋には本当のことを言おうと思った。
「へえ、そうなんですか……」
 千秋とは、これから舞台裏で一緒にやっていかなくちゃならないんだから。
「あの曲は、小雪が松岡先輩に提案して、それで決まったんだよ」
 すると千秋は驚いたように紙を切る手を止めた。
「じゃあ、やっぱり小雪先輩と松岡先輩って怪しい仲なんですね」
 その言葉にギクリとする。
 ――なんだ、もう一年生も感じてるのかよ。
 でもそれは無理もない話だった。
 最近、彩夏によって笠地蔵のストーリーに修正が加えられた。ぎこちない小雪のダンスがなかなか直らないものだから、それならそれでストーリーに組み込んじゃえと、彩夏の悪戯心が発動したのだ。
『お地蔵さん達に求愛された青年は、ダンスが上手く踊れなかったドジのチビ地蔵を選びましたとさ』
 いや、そんなラストにしなくていいから。
 僕の心の叫びは伝わることもなく、一度言い出したら引かない彩夏の案に松岡も悪乗りし、それは決定事項になってしまった。
 当然、演技をする上で松岡は小雪を見る頻度が多くなる。小雪も小雪で松岡のことをじっと見る。それを二人が怪しい関係になりつつあると皆が感じるのは、時間の問題であった。
 紙を切りながら、千秋はさらに気になることを付け足す。
「幸樹先輩もうかうかしてたら、小雪先輩のこと松岡先輩に取られちゃいますよ」
「取られちゃうってどういうこと?」
 すると千秋は目を丸くした。
「えっ、だってだって、幸樹先輩と小雪先輩って付き合ってるんでしょ」
「…………」
 驚いた。
 誰がそんな噂をしてるんだよ。
「決してそんなことはないんだけど」
「ええっ、一年生の間ではすっかり噂になってますよ。だって、先輩達って毎日一緒に帰ってるじゃないですか」
「それは……」
 理由があった。
 僕たちが通う津木高校は、二人の住む日名町とは一級河川の鏡川を挟んで対岸にあった。登下校時にはそこに架かる鏡大橋を渡らなくてはならない。この橋がまた長くて人通りが少ないのだ。夜になると女性の一人歩きは危なくなる。ということで、僕は毎日小雪を送っているのだ。
 ちなみに二人の家は割と近くにあるのだけれど、出身中学は違っていた。もちろん小学校も別で、当然、幼馴染というわけではない。僕たちは高校の演劇部で初めて知り合った仲だ。
「へえ、そうだったんですか。でも一緒に帰っているうちに、気になったりしないんですか?」
 千秋は興味津々だ。
 それにしても最近の一年生は礼儀知らずというか、大胆というか……。
「ま、まあ、小雪も悪くはないと思うけど」
 そんな照れ隠しの言葉に、千秋は眉をしかめる。
「あっ、その言い方、女性に対してすごく失礼ですよ。そんなことじゃ、本当に松岡先輩に小雪先輩を取られちゃいますからね」
「ゴメン、ゴメン。今度から気をつけるよ」
 素直に謝ると、千秋は一つため息をつく。
「でもいいなあ小雪先輩。背は私と同じくらいなのに、松岡先輩や幸樹先輩からモテモテなんだから」
 千秋も身長は低い方だった。というか、小雪と並んで演劇部の二大峡谷を形成している。身長は確実に一五○ センチを切っていた。
「私ね、背が低いことがコンプレックスだったんですよ。でも小雪先輩を見てると元気が出るようになりました。ダンスがあれだけ下手でも愛嬌があればカバーできるんですね」
「おいおい千秋。お前こそ、先輩に対して失礼なことを言ってるじゃないか」
 すかさずペロッと舌を出す千秋。
「ゴメンなさい。だって本当にうらやましいんだもん……」
 小雪のダンスの下手さは、ちゃんと一年生にも伝わっているようだ。
 僕は思わず苦笑した。
「それにしても、小雪のダンスって何とかならないものかねえ……」
「ですよね。小雪先輩を見てると、私にもチビ地蔵ができるんじゃないかと思っちゃうんですよ。だから最近は家で台本の練習をしてたりするんです」
「チビ地蔵の?」
「そうです。本当は私、早く役をもらいたいんです。背の低い人用の役ってあまりないから、小雪先輩がうらやましくって」
 なんて前向きな女の子なんだろう。
 小雪にもこれだけのアグレッシブさがあればいいのに。
「でも一年生は滅多に役はもらえないぞ。それに、まずは裏方がちゃんとできるようにならないとダメなんじゃないのか?」
 どんなに優れた役者でも、最初は裏方から始まったはずだ。
 それに千秋のような上昇志向の強い人間なら、一度役をもらってしまったらもう裏方のことなんて見向きもしない可能性がある。それならば、裏方をやっている今のうちにしっかりと指導しなければいけない。僕はそう感じていた。
「それに、今作っている雪だってかなり大雑把じゃないか」
 そう言って千秋が切っている雪を指差す。
 紙の切り方はいい加減で、大きさもてんでバラバラ。五センチくらいの大きさのものもあったりする。
「ええー、雪ってどうせ毎回捨てちゃうんですよね。だったらリハ用なんて、いい加減でいいじゃないですか」
 千秋は不満げに口を尖らせる。
 小雪はリハーサルで降らせる雪にも手を抜かなかった。ちゃんと家で、小さく丸く切って用意していたのだ。
「いや、捨てちゃうからとかそうことじゃなくて、演技する人のこともちゃんと考えてくれよ。あまりいい加減な雪だと、それで滑って怪我をするかもしれないだろ」
 それは小雪の口癖でもあった。
 彼女があまりにも雪の作成に手を抜かないので、僕はその理由を尋ねたことがあったのだ。
『だって、私の降らせた雪で滑って転んじゃった人がいたら、可哀そうでしょ』
 小雪のその答えに、「転ぶのはお前くらいだろ」と突っ込みたかった。
 でも今思えば、小雪の考えにも納得がいく。
 ――自分なら転んでしまうかもしれないから雪を小さく切る。
 それは小雪ならではの心配りだった。
「はいはい、わかりました、幸樹先輩。もっと小さく切りますってば。ちぇっ、私だったらこれくらいじゃ転ばないのにな……」
 千秋はぶつぶつと文句を漏らしている。
 よく考えたら、千秋の考え方も根底は小雪と同じなのかもしれない。
 ――自分が転ばないサイズであれば手を抜いても構わない。
 それは、小雪の考えの裏返しなのだ。
 ただ、大きさの基準が違うだけ。
 僕は、後輩の指導の大変さをつくづくと感じていた。

 >つづく

 文化祭の二週間前になると、体育館でのリハーサルが始まった。
 僕はステージ袖二階の音響ブースにこもり、音楽の切り替えを行いながら舞台の進行を見続ける。トップライトの操作も、音響ブースに居る者の役目だった。目の前のキャットウォークには、雪降らせ役の千秋が雪の袋を抱えて陣取っている。
 そして、青年がお地蔵さんに笠を掛けるシーン。
 メリー・クリスマス・ミスター・ローレンスが流れると、ステージは一気に厳かな雰囲気に変わる。
 ――やっぱりこの曲はなにか得体の知れぬパワーを持っている。
 音楽の力を痛感しながら、僕は舞台を上から眺めていた。
 千秋が降らせる少し大きめの雪の中、七体のお地蔵さんは目を閉じて澄ましている。
 そこに、松岡が演じる青年が一体ずつ笠を掛けていく。
 青年が持っている傘は五つ。それだけでは足りないので、六体目のお地蔵さんは青年が掛けていた笠が掛けられる。
 そして最後のチビ地蔵。
 いよいよ小雪の番だ。
 ――あいつ、ちゃんと演技できるかな。
 ドキドキしながら見ていると――青年役の松岡が自分の掛けている手ぬぐいを外している間、小雪はそっと目を開けた。
 ――えっ!?
 松岡の影になって、観客席側から小雪の様子は見ることができない。
 ――だからといって、目を開けちゃダメだろ? お地蔵さんなんだから……。
 小雪は上目遣いに松岡に視線を送る。そうしているうちに松岡が手ぬぐいを外し終わり、二人の視線が合う。すると――小雪の表情が満面の笑みに変わった。
「ッ……!」
 僕の胸は張り裂けそうになる。
 その笑顔がとてもまぶしくて。
 手ぬぐいを掛けてもらっている間、小雪は松岡を熱く見た。
 ――だから表情を変えちゃダメなんだよ。お地蔵さんは無表情なんだから……。
 僕の想いはここからは届かない。小雪の居る舞台がはるか遠くにあるような、そんな感覚に囚われていた。
『小雪先輩のこと、松岡先輩に取られちゃいますよ』
 先日の千秋の言葉が、頭の中で反射する。
 ――こんなに胸が苦しくなるなんて。
 この期に及んで僕は理解した。
 小雪に対する自分の気持ちが本物であることを。
 そして同時に、もう手遅れかもしれないということを。

 それからの演劇の進行は、ほとんど覚えていなかった。
 機械のように音楽を替えて、機械のように照明の光量を変える。
 行動をオートマチックにすれば、心なんて必要なかった。
 自分を我に返らせたのは、突然体育館に響いたキャーという女生徒の悲鳴だった。
 ――な、なんだ。何が起きた!?
 二階からステージを見ると、真下に小雪が倒れていた。顔の辺りの床を血で赤く染めながら。
「小雪、大丈夫か!?」
 松岡が小雪の元に駆けつける。
「小雪ちゃん、しっかり!」
 彩夏も小雪の元に駆け寄る。
「誰か、顧問の先生を呼んできて!」
 二人の影になって小雪は見えなくなってしまった。だから自分の出番は無くなったと僕は呆然とする。
 ――小雪だって松岡先輩に介抱してもらった方が幸せだろう。
 すると千秋が真っ青な顔をして、キャットウォークを通って僕の方に向かって来た。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私の雪で小雪先輩が転んでしまって……」
「えっ、雪がどうかしたの?」
「先輩、見てなかったんですか? 小雪先輩、ダンスの時に雪で足を滑らせて……」
 全く記憶に無い。
「あ、ああ。う、うん」
 生返事をする僕に、千秋は「だから小雪先輩を取られちゃうんですよ」と言わんばかりの眼差しを投げつける。そして横をすり抜け、階下の小雪の元へ駆けて行った。
 僕は二階に一人残された。
 ぼんやりと目に映るステージでは、慌てて駆けつけた顧問に小雪が抱えられて消えて行く。きっとこれから病院に行くのだろう。
 ――今日の帰りは一人か。小雪にとって僕は、もう要らないものなんだな……。
 ステージには千秋が降らせた紙の雪と、小雪の鼻から流れた血が残された。

 >つづく

 翌日の部活では、顧問の先生から小雪の症状が発表された。
 鼻骨骨折。
 鼻の先の骨にヒビが入ってしまっているという。
 まだ鼻の腫れがひどいため、手術が必要かどうかの診断は出来ずにいた。その判断は、一週間後に予定されているという。
 もし手術が不必要な場合でも、骨が固まるまでは決して鼻をぶつけてはならない。それは、ドジで運動音痴の小雪にとって、文化祭の舞台でダンスを踊るなと言っているようなものだった。

「どうするんだよ、部長の彩夏さんよ」
 リハーサルが終わり、人気の無くなった体育館に松岡の声が響く。
「どうするって、何をどうするのよ」
 彩夏がとぼけたように答える。
 どうやら、ステージ上には松岡と彩夏の二人だけが残っているようだった。
 僕は、二階の音響ブースで音楽の調整のために居残っていた。ステージの二人は僕の存在には気付いていないようだ。聞いてはいけないと思いながらも、二人の声は自然と耳に入ってくる。
「文化祭の舞台だよ。小雪は怪我でダンスが踊れなくなっちまっただろ。だったら代役を立てるか、ダンスの無い演劇に書き換えるか、どちらしかねえだろ?」
 今日のリハーサルは、小雪が演じるチビ地蔵が居ないまま強行した。しかし、なんだか締まらないものになってしまう。それは、チビ地蔵はすでにメインのヒロインになっていることを示していた。
「ああ、その件ね。小雪ちゃんには悪いけど代役を立てるわ」
「代役って、今から間に合うのかよ」
 松岡は心配そうな声で彩夏に尋ねる。
「なに、その不満そうな顔は。ははーん、愛しの姫君がリタイアしそうだから心配なのね」
「違ぇよ」
「あら、そうかしら。演技中はいつもあんなに楽しそうにしてるのに」
「だから違ぇって言ってんだろ。お前があんな演出にしたんじゃねえか。俺はただ演じてるだけだぜ」
 本当にそうだろうか。
 ステージを上から見ていると、松岡と小雪はまるで恋人同士のように演技をしていた。
「ホントは小雪ちゃんのこと、好きになっちゃったんじゃないの?」
 彩夏も、僕と同様に感じていたようだ。
「わかんないヤツだな。俺はちゃんとお前のことを」
 キュッとステージの床を上履きがこすれる音がする。
「やだ、こんなところで。ダメだよ、誰か居るかもしれないじゃない」
「誰も居ねえよ」
「んっ……」
 急に静かになったのでそっと階下を覗いてみると――舞台袖の陰で二人はキスをしていた。
 ――えっ、えっ、えっ!!
 部長と松岡先輩って付き合ってたんだ。って、キ、キスしてるよ。ドラマみたいに。
 僕は思わず息を潜める。
「わかったわ。あんたを信じる」
 キスが終わると、二人はしばらく見つめ合っていた。
「それで代役って誰にするんだよ」
「千秋ちゃんにしようと思う」
「ち、千秋って一年生の千秋か? おいおい、大丈夫なのか? 本番まであと一週間ちょっとしかないんだぞ」
 松岡が驚くのも無理はなかった。一年生が入部早々に役に抜擢されることは、今まで一度も無かったからだ。
「さっきね、千秋ちゃんから相談されたの。私を使ってくれませんかって。千秋ちゃん、自分にもチビ地蔵が演じられるんじゃないかってずっと一人で練習してたみたいなの。演技もちょっと見てみたけど、なかなかだったわ」
 千秋よ上手いことやったな。僕は小さく舌打ちをする。
「なんだ、それを先に言ってくれよ。じゃあ、舞台は安心だな」
 松岡は安堵の声を上げた。
「ええ、何とかなりそうよ。ところで千秋ちゃんに聞いたんだけど、メインのシーンの曲を提案したのってあんたなんだって?」
 おいおい千秋よ、そんなことまで部長にしゃべったのかよ。
「えっ、そりゃ何のことだ?」
 驚く松岡。
「ほら、メリー・クリスマス・ミスター・ローレンスよ。坂本龍一の」
「俺、知らねえぞ」
 その言葉に僕は耳を疑った。
 ――だって、松岡先輩が僕に推薦したんじゃないですか。小雪の紹介する曲がいいからって。
「千秋ちゃん言ってたわよ。小雪ちゃんがあんたにCDを渡して、その曲をあんたが気に入ったから幸樹に提案して、それで曲が決まったって」
「小雪がCDを?」
 すると松岡は、ようやく理解したという表情をした。
「ああ、あのCDか。実はな、あれは小雪からもらってそのまま幸樹に渡しちまったんだよ。聞くのが面倒臭くってな。今時CDなんて聞いてるやついるか? あっ、これは内緒だぜ」
 聞きたくはなかった。
 そして信じられなかった。
 今、聞いたことを、松岡に全力で否定してほしかった。
「あんたって悪い人ね。あーあ、何で私、こんな人を好きになっちゃったんだろ」
「悪かったな。俺も好きだよ」
「あっ、んっ……」
 そして二人はまたキスをする。
 ――それじゃあ小雪があまりにも可哀そうじゃないか……。
 松岡を殴ってやりたい衝動に駆られつつも、僕は一歩も動けなかった。それは、松岡を許せないという怒りよりも、松岡に小雪は取られないという安堵の方が大きかったから。
 僕はただ、音響ブースからステージ袖での出来事を見つめていた。

 >つづく

 そして無情にも本番の日がやってきた。
「はあ……」
 開演を前にキャットウォークに上がった小雪は、今日何度目か分からないため息をつく。
 鼻の腫れはすでに収まり、幸い手術もしなくて良いと診断された。しかし、骨が固まるまでのことを考えて、チビ地蔵の役は降りざるを得なかった。部活に復帰したその日に、雪降らせ役へのコンバートを彩夏に告げられたのだ。
 小雪にとって、それがいまだに不満らしい。
「いいなあ、千秋ちゃん……」
 新しいチビ地蔵役は千秋になった。
 それをうらやむ小雪の声は、同じ二階に居る僕の元までは届かなかったが、彼女の表情からそうつぶやいているのは明らかだった。
 ――小雪よ、松岡先輩の心は初めからお前には向いていなかったんだぞ。
 僕はそのことを小雪に話せずにいた。
 話せるはずもなかった。
 ――小雪はまだ、あの場所に戻れば松岡先輩の心に近づけると思っているのだろうか?
 その証拠に、小雪はずっとステージ上のチビ地蔵が立つ場所を見つめていた。

 そしていよいよ本番が始まった。
 小雪は雪の袋を抱えて、彼女特製の雪を降らせる。
 いつものように、親指くらいの大きさに丸く切った紙の雪を。
 ――他の誰かが、悲しい思いをしなくてすみますように。
 小雪が願い続けてきたことがどんなに尊いことか、僕は今回の件で思い知らされた。
 そして今回ばかりは、その雪を作ることがどんなに辛かったかということも。
 しかし小雪はやり遂げた。
 精一杯の小雪の優しさだった。
 雪はゆっくりと宙を舞いながら、お地蔵さんの頭の上に降り積もる。
 坂本龍一のメリー・クリスマス・ミスター・ローレンスのイントロに乗せて。
 イントロが終わり曲のメインフレーズが流れると、舞台は一瞬のうちに荘厳で幻想的な空間に変化した。
 ――音楽の力はつくづく絶大だな。
 実は僕は、本番でこの曲をかけるのをやめようと思っていた。
 なぜなら、このCDにまつわる秘密を知ってしまったから。
 小雪が松岡にCDを渡し、それが僕の元に届いたこの曲。
 松岡が気に入ったと、小雪が思い続けているこの曲。
 そして松岡は聴いていないと、知ってしまったこの曲。
 しかし、そんな人間関係の不協和音を吹き飛ばすくらい、この曲のメロディは純朴だった。
 ――だって、小雪が好きな曲なんだから。
 結局僕は、予定通りこの曲をかけることにした。

 このシーンにセリフは一切無い。
 夜の小路にたたずむお地蔵さんが七体。
 その一体一体に松岡が演じる青年が笠を掛けていく。
 そしていよいよチビ地蔵の番になった。
 松岡が自分の掛けている手ぬぐいを外している間、千秋はそっと目を開けた。それはいつかの小雪のように。
 ――千秋よ、上からは丸見えなんだぜ。
 ここからはすべてが見える。演劇で行われていることのすべてが。
 それは小雪にとっても同じだった。
 小雪の表情が次第に崩れていくのが、こちらからも見てとれた。
 そして松岡が手ぬぐいを外し終わると、千秋は松岡に向けて満面の笑みを送る。
 ――だから千秋、お地蔵さんは表情を変えちゃダメだって言ってるじゃないか。
 小雪は、目に大粒の涙を浮かべていた。
 僕の胸はキュンと締め付けられる。
 ――やっぱり小雪は松岡先輩のことが好きなんだ。
 そして、メリー・クリスマス・ミスター・ローレンスをかけたことを強く後悔する。
 小雪は今でも、この曲を松岡が気に入ってくれたと思っている。
 だから小雪は、この曲がかかるあの場所が恋しくて仕方がないのだ。
 ――これ以上、この曲を流してはいけない。
 胸が張り裂けそうな想いは、僕も同じだった。
 ――小雪の涙がこぼれる前に。
 ――雪が雨に変わるその前に。
 だから僕は意を決し、目の前のスイッチを押した。

 >つづく


 雪が桜になった。

 観客の多くがそう感じたという。
 なぜなら、流れていた音楽が突然、いきものがかりの『SAKURA』に変わったから。
 小雪が作った丸い雪は、落ちる途中で桜に変わり、ひらひらとステージ上を舞った。
 
「ごめんなさい部長。勝手なことをしてしまって」
 演劇が終わって、舞台挨拶への拍手が鳴り止まないステージ袖に駆け降りた僕は、彩夏に深く謝罪した。
「いいよ、いいよ。面白かったからさ」
 彩夏は何事も無かったかのようにニコリと微笑む。彩夏はやっぱり彩夏だった。
「でも本当に申しわけありません」
「それよりも見た? 松岡のあの驚いた顔を」
 それは傑作だったと言わんばかりに彩夏は笑う。
「は、はい……」
 音楽を切り替えた瞬間、松岡と千秋は驚いて音響ブースを見上げた。その時の様子を、僕は一生忘れることができない。なぜなら二人の表情が、驚きと戸惑いと、僕への怒りが織り交ざって構成されていたから。
「その直前にさ、幸樹はチビ地蔵上のトップライトの光量を上げただろ?」
 トップライトの光量を上げたのは、小雪が降らせる桜に注目してほしかったからだ。
 確かにあの瞬間、桜は演劇の主役になった。
「それがなかなかいい演出になったんだよ。天から光が差す。驚いてそれを見上げる青年。まるで天の命でお地蔵さんに魂が宿ったかのような印象を受けたんだよね。実に絶妙だったよ」
 僕はそこまでは計算していなかった。
 ただ、小雪の行為に光を当てたかった。
「雪を桜に変えるってのは思いつかなかったなあ。でもよく考えたら、その後で青年に春が訪れるという展開なんだから、こんな演出もアリなんだよね。勉強になったよ」
 ――桜を降らせてみたい。
 それは小雪のささやかな願いだったから。
「それにしても音楽の力ってすごいね。一瞬で雪を桜に変えちゃうんだから……」
 彩夏は理解してくれたが、他の部員もそうとは限らないだろう。
 特に当事者となってしまった松岡と千秋は、この拍手が鳴り止んだとたんに僕に詰め寄って来るような気がした。織り交ぜた怒りに火をつけながら。
 しかし僕は、その難関を乗り越えられるパワーが心の底から湧いて来るのを感じていた。
 だって、あの時、小雪がとびきりの笑顔を僕に向けてくれたから。
 キャットウォークという桜舞う橋の上で、こぼれかけた涙を拭いながら。


 おわり


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