「また雪、なのね……」
隣を歩く小雪がポツリとつぶやいた。
ここは暖かな春の夕暮れの鏡大橋の上。川辺の桜並木は、その薄紅色を水面に反射させている。
「えっ、明日雪が降るの? こんなに暖かいのに? 天気予報ってそんなだったっけ?」
桜は満開だというのに。
驚いた僕は小雪の顔をのぞき込む。春の夕陽は彼女の頬を赤く染めていた。
「ち、違う、違うよ。天気のことじゃないってば」
小雪ははずかしそうに僕を見上げる。
身長一四五センチ。そんな小柄な彼女の見せる上目づかいの仕草は、心の奥をくすぐった。
「部活だよ、部活。ほら、この夏の演題が決まったでしょ」
僕たちは高校の演劇部に所属している。共に新二年生。春になって新学期が始まると同時に、夏の文化祭で上演する演題が決定した。
「そうか、そうだったな……」
つい数時間前のことなのに、ずいぶんと昔のことのように思えてしまうのは、その演題が予想とはかなりかけ離れていたから。
「それにしても笠地蔵とはな」
「そうよね、よりによって笠地蔵とはねぇ……」
二人でため息をつく。
笠地蔵――こんな古風な演題を提案したのは、三年生で部長の彩夏だった。暑い夏だからこそ、あえて涼しそうな演題をやろうということらしい。
はたしてそうだろうか?
夏の体育館で雪のシーンを見て、涼しくなる奴がいるものか?
時々、部長の考えていることが分からなくなる。そんなすっ飛んだ発想が玉にキズの部長だった。
「だからね、私さっき、雪って言ったの」
確かに笠地蔵に雪は欠かせない。
そして小雪は川面に視線を移し、ゆっくりとつぶやいた。
「その雪をね、降らせるのはきっと、また私なんだから……」
一年生だった先月までの一年間、小雪はずっと裏方だった。小道具や衣装を用意したり、舞台セットを動かしたり。ちょこまかと走り回るその姿を見た部長は、小雪を雪降らせ役に抜擢した。
『小雪ちゃん、ちっちゃくて可愛いから雪降らせ役、よろしくね』
そんなわけのわからない理由で。
だから小雪は、秋の公演からずっと雪降らせ役を続けている。ステージ上のキャットウォークが彼女の舞台だった。
おそらく小雪は自分の役に不満を持っているのだろう。歩きながらいつまでも川辺を見つめている彼女を見て、僕はそう感じていた。
ここは男らしいところを見せるべきだと、思い切って小雪に提案する。
「じゃあさ、小雪。僕が部長に相談して、違うことをやらせてもらえるように頼んであげるよ」
「……」
小雪は黙ったまま、相変わらず川辺を見続けていた。
――しまった、もしかしたら余計なことを言っちまったか?
小雪を不快にさせてしまった。そう感じた僕は必死に繕う。
「ゴメン、小雪。お節介だったね。って、ちょっと聞いてる?」
すると小雪は驚いたように僕の方を向く。
「えっ、なになに? 幸樹くん、何か言った?」
「なんだよ、さっきから何も聞いてなかったのかよ」
「へへへ、ゴメンね。桜があまりに綺麗なものだからつい見とれちゃって。それで何?」
確かに川辺の桜並木は美しい。が、不満を漏らしかけながらも、それをすっかり忘れて桜に見とれてしまうなんて、天然キャラ丸出しの行動はなんとも小雪らしかった。
「いや、小雪を見てると、雪降らせじゃないことをやりたいのかなって思ったから」
すると小雪の瞳が輝いた。
「幸樹くん、いいこと言うねぇ。そうね、私、違うものにもチャレンジしたい」
――やっぱり小雪は雪降らし役に不満を持っていたんだ。
自分の感じたことが間違っていなかったことを確認して、僕は少しほっとする。
「じゃあ、何がいい?」
僕たちはこの四月で二年生になった。新入生がたくさん入部して裏方を引き受けてくれれば、小雪だって舞台に立てるはずだ。
「えっとねぇ……」
そして満面の笑みで声を上げる。
「桜!」
「へっ?」
僕は言葉を失う。
――桜ぁ? 桜の役がやりたいのか? それってただ立ってるだけじゃないの? というか、笠地蔵に桜って出てきたっけ?
すると小雪はまた川辺の桜並木を向く。
「私、一度でいいから桜を降らせてみたい。あんな風に」
――おいおい、そっちかい。いい加減、降らせ役から離れろよ。
脱力のあまり、ずっこけそうになる。
「だって、すっごく綺麗なんだもん」
桜はすでに散り始めていて、風が吹くたびに大量の花びらを夕陽の中に放出していた。川面で発生する小さな乱気流に乗っていつまでも舞い続けるピンクの欠片は、夕陽の反射と相まって幻想的な情景を作り出している。
立ち止まってそれをうっとりと見つめる小雪を見て、真剣に彼女のことを考えていた自分がバカらしくなった。
「小雪は、舞台には立ちたくないのか?」
僕は小雪と並んで、鏡大橋の欄干に身を預ける。
「舞台ねえ……」
そして一息おいて、
「私って、チビでドジで物覚え悪いからね。舞台映えしないし、裏方がお似合いなのよ。それにね、ステージの上から舞台を見るのって結構気に入ってるんだ。幸樹くんも近くに居るしね」
と僕の方を向きながら、へへへと照れ笑いする。
「そう言う幸樹くんはどうなの? ずっと音楽担当をやるつもり?」
僕は音楽担当だった。
体育館の音響ブースは舞台袖の二階にあり、その窓から舞台を見下ろすことができた。小雪が居るキャットウォークは目の前で、二人が近くに居るというのはそういう意味だった。
「僕は……」
小雪の近くに居たい、なんてキザなことを言う勇気も無く、
「音楽担当が好きなんだ」
と言いかけた。
その時。
鏡大橋と平行に架かる鉄橋を電車が走る。その轟音が僕の言葉を掻き消した。
「えっ、なになに、聞こえなかったよぉ」
小雪がおねだりするような目つきで僕を見る。
「何でもない。何も言ってないよ」
「えー、ずるい。口が動いてた。何て言ったのか教えてよ」
欄干から身を離し橋上を歩き始めた僕を、小雪が小走りに追いかける。
「だから、音楽担当が好きだって言ったんだよ」
僕たちのそれぞれの自宅がある対岸の町、日名町はもうすぐだった。
>つづく
隣を歩く小雪がポツリとつぶやいた。
ここは暖かな春の夕暮れの鏡大橋の上。川辺の桜並木は、その薄紅色を水面に反射させている。
「えっ、明日雪が降るの? こんなに暖かいのに? 天気予報ってそんなだったっけ?」
桜は満開だというのに。
驚いた僕は小雪の顔をのぞき込む。春の夕陽は彼女の頬を赤く染めていた。
「ち、違う、違うよ。天気のことじゃないってば」
小雪ははずかしそうに僕を見上げる。
身長一四五センチ。そんな小柄な彼女の見せる上目づかいの仕草は、心の奥をくすぐった。
「部活だよ、部活。ほら、この夏の演題が決まったでしょ」
僕たちは高校の演劇部に所属している。共に新二年生。春になって新学期が始まると同時に、夏の文化祭で上演する演題が決定した。
「そうか、そうだったな……」
つい数時間前のことなのに、ずいぶんと昔のことのように思えてしまうのは、その演題が予想とはかなりかけ離れていたから。
「それにしても笠地蔵とはな」
「そうよね、よりによって笠地蔵とはねぇ……」
二人でため息をつく。
笠地蔵――こんな古風な演題を提案したのは、三年生で部長の彩夏だった。暑い夏だからこそ、あえて涼しそうな演題をやろうということらしい。
はたしてそうだろうか?
夏の体育館で雪のシーンを見て、涼しくなる奴がいるものか?
時々、部長の考えていることが分からなくなる。そんなすっ飛んだ発想が玉にキズの部長だった。
「だからね、私さっき、雪って言ったの」
確かに笠地蔵に雪は欠かせない。
そして小雪は川面に視線を移し、ゆっくりとつぶやいた。
「その雪をね、降らせるのはきっと、また私なんだから……」
一年生だった先月までの一年間、小雪はずっと裏方だった。小道具や衣装を用意したり、舞台セットを動かしたり。ちょこまかと走り回るその姿を見た部長は、小雪を雪降らせ役に抜擢した。
『小雪ちゃん、ちっちゃくて可愛いから雪降らせ役、よろしくね』
そんなわけのわからない理由で。
だから小雪は、秋の公演からずっと雪降らせ役を続けている。ステージ上のキャットウォークが彼女の舞台だった。
おそらく小雪は自分の役に不満を持っているのだろう。歩きながらいつまでも川辺を見つめている彼女を見て、僕はそう感じていた。
ここは男らしいところを見せるべきだと、思い切って小雪に提案する。
「じゃあさ、小雪。僕が部長に相談して、違うことをやらせてもらえるように頼んであげるよ」
「……」
小雪は黙ったまま、相変わらず川辺を見続けていた。
――しまった、もしかしたら余計なことを言っちまったか?
小雪を不快にさせてしまった。そう感じた僕は必死に繕う。
「ゴメン、小雪。お節介だったね。って、ちょっと聞いてる?」
すると小雪は驚いたように僕の方を向く。
「えっ、なになに? 幸樹くん、何か言った?」
「なんだよ、さっきから何も聞いてなかったのかよ」
「へへへ、ゴメンね。桜があまりに綺麗なものだからつい見とれちゃって。それで何?」
確かに川辺の桜並木は美しい。が、不満を漏らしかけながらも、それをすっかり忘れて桜に見とれてしまうなんて、天然キャラ丸出しの行動はなんとも小雪らしかった。
「いや、小雪を見てると、雪降らせじゃないことをやりたいのかなって思ったから」
すると小雪の瞳が輝いた。
「幸樹くん、いいこと言うねぇ。そうね、私、違うものにもチャレンジしたい」
――やっぱり小雪は雪降らし役に不満を持っていたんだ。
自分の感じたことが間違っていなかったことを確認して、僕は少しほっとする。
「じゃあ、何がいい?」
僕たちはこの四月で二年生になった。新入生がたくさん入部して裏方を引き受けてくれれば、小雪だって舞台に立てるはずだ。
「えっとねぇ……」
そして満面の笑みで声を上げる。
「桜!」
「へっ?」
僕は言葉を失う。
――桜ぁ? 桜の役がやりたいのか? それってただ立ってるだけじゃないの? というか、笠地蔵に桜って出てきたっけ?
すると小雪はまた川辺の桜並木を向く。
「私、一度でいいから桜を降らせてみたい。あんな風に」
――おいおい、そっちかい。いい加減、降らせ役から離れろよ。
脱力のあまり、ずっこけそうになる。
「だって、すっごく綺麗なんだもん」
桜はすでに散り始めていて、風が吹くたびに大量の花びらを夕陽の中に放出していた。川面で発生する小さな乱気流に乗っていつまでも舞い続けるピンクの欠片は、夕陽の反射と相まって幻想的な情景を作り出している。
立ち止まってそれをうっとりと見つめる小雪を見て、真剣に彼女のことを考えていた自分がバカらしくなった。
「小雪は、舞台には立ちたくないのか?」
僕は小雪と並んで、鏡大橋の欄干に身を預ける。
「舞台ねえ……」
そして一息おいて、
「私って、チビでドジで物覚え悪いからね。舞台映えしないし、裏方がお似合いなのよ。それにね、ステージの上から舞台を見るのって結構気に入ってるんだ。幸樹くんも近くに居るしね」
と僕の方を向きながら、へへへと照れ笑いする。
「そう言う幸樹くんはどうなの? ずっと音楽担当をやるつもり?」
僕は音楽担当だった。
体育館の音響ブースは舞台袖の二階にあり、その窓から舞台を見下ろすことができた。小雪が居るキャットウォークは目の前で、二人が近くに居るというのはそういう意味だった。
「僕は……」
小雪の近くに居たい、なんてキザなことを言う勇気も無く、
「音楽担当が好きなんだ」
と言いかけた。
その時。
鏡大橋と平行に架かる鉄橋を電車が走る。その轟音が僕の言葉を掻き消した。
「えっ、なになに、聞こえなかったよぉ」
小雪がおねだりするような目つきで僕を見る。
「何でもない。何も言ってないよ」
「えー、ずるい。口が動いてた。何て言ったのか教えてよ」
欄干から身を離し橋上を歩き始めた僕を、小雪が小走りに追いかける。
「だから、音楽担当が好きだって言ったんだよ」
僕たちのそれぞれの自宅がある対岸の町、日名町はもうすぐだった。
>つづく